ここに汚れた一冊のノートがあります。
これは震災発生時、私が持っていたノートです。
この震災当時のノートの記述を元に、あの日あの時を振り返ってみたいと思います。
3月11日、あの日あの時あの瞬間、私は陸上自衛隊多賀城駐屯地で勤務していました。
射撃による難聴で前日まで入院していた私ですが、転属前の申し送り資料を作るため、1週間ぶりに職場に顔を出していたのです。
金曜日の午後。
とても暖かい日で、昼下がりの眠い目をこすりながらパソコンのキーボードを叩いていたのを憶えています。
そして運命の1446。
いまだかつて経験したことのないような揺れに「やばい!やばい!」と叫びながら机の下にみんなで潜りました。
本当に命の危険を感じた時は体が勝手に動くものです。
揺れが収まった直後から、間髪入れずに全員が災害派遣の準備に取りかかりました。
間の悪いことに、その日は主力である第22普通科連隊のほとんどの隊員は、連隊の射撃競技会で隣町の利府射場に行っていたのです。
今いる人員でやるしかない!
私は連隊本部との連絡要員として、上層部の指示を自分の中隊に伝令していました。
その合間を見て、妻に電話をかける。
何回かけても繋がらない。
1回・ダメ。
2回・・ダメ。
3回・・・繋がった!
「大丈夫か!?」
「とりあえず大丈夫!子供も回収したよ・・・」
電話は途切れました。
とりあえず妻と子供2人は無事らしいことを確認できたので、再び災害派遣の準備に専念。
突然降り出した雪の中、一刻も早く出動するために派遣準備を急いだのです。
その後、多賀城駐屯地も津波に呑まれ、私たちは隊舎の屋上から流されていく街を呆然と眺めることになります。
津波が来て、一旦落ち着いた頃、流れてきた車に人が乗っていないかを確かめるため津波をかき分けていきました。
ノートはその時に津波に浸かりました。
実は妻は、多賀城のジャスコの1階で働いていました。
いつもなら午後も仕事をしているのですが、その日は子供の予防接種があり、午前中に仕事を終えて子供を迎えにいったところでした。
そもそもは前日に私が予防接種に連れて行くはずだったのですが、「退院したばかりで気乗りしない。」ということで次の日に妻に行ってもらったのでした。
本当に運が良かったと思います。
妻の働いていた多賀城のジャスコは津波に呑まれました。働いていた1階のフロアはもちろん、2階まで来たようです。
もしも妻がその日もいつも通り午後までの勤務だったら・・・
もしもその日仕事が休みで、子供達と海辺の公園に遊びにいっていたら・・・
もしも・・・
もしも・・・
考え始めればキリがありませんが、とにかく運良く生き延びました。
ほんの少しのタイミングのずれで。
ほんの少しの行動の違いで。
本当に紙一重の違いで、命がなかったかもしれなかった。
その後「何のためにあるんだ?」と言われ続け、開かずの門だった東門から22連隊の主力は帰ってきて、私の部隊はその日の夜に気仙沼に出発。
家族とは最初の電話以来連絡が通じず、どこにいて何をしているかも分からない状態が続きました。
再び家族に会えたのは、3月16日。震災から5日後のことでした。
その時の気持ちがメモに残されていました。
あの日のことは忘れません。
妻は小さな2人の子を抱え、しかもお腹に3人目の子供がいる状態での逃避行でした。
本当に大変だったと思います。
子供達をよく守ってくれたと思います。
自衛官という仕事は『たくさんの国民を守る』のと引き換えに、『一番守りたい人の側にはいてあげられない』仕事です。
だからこそ、自衛官の皆さんには『何でもない平和な今この瞬間』を家族と大切に生きて欲しい。
一度しかない人生を『お金を理由に諦めながら生きる』って、とんでもなくもったいないこと。
お金は上手に付き合えば、人生の可能性を大きく広げてくれます。
それは私が自衛官として実際に経験したからこそ、強く伝えたいことです。
そのために私はFPになりました。
亡くなられた多くの方々に黙祷。
そして、あの状況をどうにかしようと生きたすべての人に感謝。
生かされた命。
私はどう生きる?
あなたはどう生きますか?
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